創業について~後編~
いよいよ誕生、「スラックスの越前屋」
「百貨店であれば売り先として信用できる上、百貨店で扱っている商品はすべて一流品であり、そこで当社のズボンが売れているとなれば、商品の優秀さを証明するようなもの」。
ないないづくしのスタートながら体当たり戦法で百貨店販路を獲得
後年、創業者の髙野匡央はこう回想している。商品をズボンに絞り込んだように、取引先も百貨店にターゲットを絞り込んだ。ただいくら着想がよくても、忍耐と努力がそれにともなわなければ決して成功しないのだが、こうと決めたら最後までやり遂げる、かたくななまでの気迫と執念が彼には備わっていた。
当時はまだ、スラックスという言葉はなく、替ズボンと呼んでいた。社会全般がモノ不足にあえいでおり、替えズボン一本が当時の金額で5,000円というインフレ時代で、新卒初任給は2,000円程度だったのである。
いかに衣料品が高価だったか容易に推察できる時代、そんな「高額商品」を肩にかついで百貨店回りをするのだから、気苦労も大変である。
幸い、委託取引で納品しても、ほとんどの商品は売り切れていた。しかし、売れたら売れたで後の補充が苦痛の種でもあった。
生地の仕入れはすべて現金だし、縫製工場もよい仕事をしてもらおうとすれば支払条件をよくしなければならない。しかしながら、いかに苦しくとも、我々の提供するスラックスは常に最良のものを、というのが信念だった。
スラックスの検品は厳しく行い、少しでも不具合のある商品があると徹底的に手直しをし、きめ細かい配慮に徹していた。急がば回れという言葉があるが、こうした商品に対する姿勢が徐々に百貨店側に認められ、「髙野の持ち込むものなら信用できる」という評判が高まっていった。
昭和25年5月 増資、そして「株式会社越前屋」として組織変更
昭和25年5月、資本金50万円の「株式会社越前屋」と組織変更され、2名の社員が入社するまでになった。株式会社に組織変えした翌年、事務所を東区南新町に移転。こうして、越前屋の基盤が少しずつ形づくられていくのだった。
事務所とはいえ、普通の家の二階をかりたもので、わずか十畳ほどの一室である。しかしながら当時の社員たちは、古い木机二脚とささやかな応接セットを置いて、自社の拠点が決まった喜びをかみしめた。
古びたリヤカーは初心を取り戻してくれる『社宝』
仕事場は事務所の裏手にあった古いトタン屋根の倉庫。雨が降れば話し声もろくに聞こえず、雨漏りすらした。生地が濡れないようにヒモをたらして、落ちるしずくを誘導した。冬の凍てつくような寒さに耐え、猛暑にはホースで水をまきながら、三人は一台のリヤカーを中心に頑張ったのである。
当時は取引き先も近畿一円に拡大。もちろん自動車などはなく、すべて、肩とリヤカーと自転車で運んでいた。たとえば、京都に納品となると、自転車の荷台に山のように商品を積んで、二人がかりで京阪天満橋へ。一人は荷物を担いで電車に乗り、もう一人は自転車を飛ばして帰社する。なにしろ次の運搬が待っているのだ。
当社に自動車が登場するのは1961年、創業12年もたってからだ。その間、リヤカーで、自転車で、いったいどれだけの商品を運んだことか—。
七〇年の歴史を見守り、越前屋のルーツともいえるリヤカーと応接セット。リヤカーは現在、長崎の自社工場に展示され、当時を偲ばせている。